第32軍司令部壕とは?
1944年(昭和19年)3月、南西諸島の防衛を目的に第32軍が創設され、同年12月には第32軍司令部壕の構築がはじめられました。
1945年(昭和20年)5月、第32軍司令部は沖縄島南部へ撤退しますが、その時に壕の主要部分と坑口(壕の出入口)は破壊されました。
第32軍司令部壕は首里城地下にあり、直線距離にして約375m、壕の総延長は約 1,000mと推定されています。
坑口(壕の出入口)は全部で5か所とされていますが、埋没や崩落があり、位置や状態が確認できてい るのは第5坑口の1か所のみとなっています。
坑道(壕の中)は天井や壁面の崩落等により、安全面に課題があることから、現在、中に入ることはできな い状態です。また、土砂等で埋もれて塞がっている 区間については、未発掘(未調査)となっています。
【第32軍司令部壕】
第32軍司令部壕は、当初南風原町津嘉山に構築され、その中途で那覇市首里城下に移動し、最終的には糸満市摩文仁に撤退したため、合計3か所存在した。以下、その変遷を概略する。
第32軍司令部は、1944(昭和19年)3月25日に福岡県で編成され、その所在は4月2日に那覇市安里にある蚕種(史料では蠶絲)試験場に置かれた。それから間もない同年4月22日から、津嘉山において司令部壕の構築が行われた。その理由としては、人口が集中する南部地域において、もっとも内陸部に位置したこととされる。しかしながら、10・10空襲以後、津嘉山司令部壕は軟弱な地質であったため、更なる強固な壕を構築することが検討された。同年12月3日には津嘉山を放棄し、首里城下の司令部壕の構築が決定され、1945(昭和20年)1月中旬には幕僚や管理部が使用できる段階まで構築されることが命令された。
1945(昭和20)年1月10には、軍司令部は、構築が始まった首里司令部壕付近の沖縄師範学校とその付属国民学校に移転したとされる。そして、軍経理部などは津嘉山へ移動することになり、第32軍司令部は首里と津嘉山に分かれて配備されたとされる。米軍上陸が間近となった同年3月24日は、首里司令部壕には第32軍参謀長長勇中将が首里司令部壕の壕口に「天ノ巌戸戦斗司令所」と書かれた木札を掲げていることから、この頃に本格的な使用されたものと思われる。その後、戦況が悪化し、第32軍が南部へ撤退することになり、5月30日に司令部は摩文仁89高地の陣地壕へ移動することとなった。
引用元:沖縄県の戦争遺跡-平成22~26年度戦争遺跡詳細確認調査報告書
(平成27(2015)年3月 沖縄県立埋蔵文化財センター)
【司令部壕】
司令部とは、旅団以上の規模の部隊が指揮下部隊を指揮統制する組織で、部隊の最高指揮権をもつ司令官をはじめ、司令官を補佐し作戦や用兵の計画・指導を行う参謀長や参謀などの幕僚を中心に構成される。司令部は各部隊との連絡や情報収集、命令を行う通信能力、作戦研究や作戦評価を行う能力があり、文字通り部隊の頭脳として機能する。
(一部省略)
司令部壕は敵の攻撃から司令部を守るために地上に堅固な構築物として、あるいは地下にトンネル状に構築・設置された施設である。
引用元:沖縄県の戦争遺跡-平成22~26年度戦争遺跡詳細確認調査報告書
(平成27(2015)年3月 沖縄県立埋蔵文化財センター)